増田長盛(ましたながもり)は、北近江長浜に入った木下秀吉(後の豊臣秀吉)に見出され、槍働で出世した後、兵站・外交などの内政分野でその能力を発揮した戦国大名です。
豊臣秀吉の最晩年には、政権中枢を支える五奉行の1人にも選ばれ、100万石を超える豊臣蔵入地の一括管理を担うほどの大きな力を持っていました。
もっとも、関ヶ原の戦いの際には、石田三成方に与しながら、徳川家康方に密告書を送るなどしてどっちつかずの態度を示した後、戦後に改易処分を受けて大和国郡山20万石を失う失態を犯しています。
その後、出家して蟄居生活を送っていたのですが、大坂夏の陣が始まると、敗北するのを知りつつ大坂城に入城し、戦後にその責任を問われて自刃して果てるという壮絶な最期を迎えました。
本稿では、意外と知られていない波瀾万丈の人生を送った増田長盛の生涯について簡単に説明したいと思います。 “【増田長盛】どっちつかずの立場をとって没落した豊臣政権五奉行の1人” の続きを読む